おせちのスイートポテトについて
幼い頃、おせちがあまり好きでなかった。今でも特別食べたいわけではないが、当時は殆ど手もつけなかった。おせちは大人の味なんだから、子供の自分が食べられなくても良いだろうと思い、一緒に出されたお餅やら味の濃い煮物やらを食べていた。母親はそのことを気にしていたようで、ある年の正月に、大きな戦力をおせちに紛れ込ませていた。それがスイートポテトであった。
もともと、そこには栗きんとんが陣取っていた。私は甘いものが好きだったが、なぜか栗きんとんはそんなに美味しいと思えなかった。美味しくないものの集まりであるおせちに入っているというだけで、既にちょっと拒絶していたのかもしれない。
だが、スイートポテトは別である。紛れもないデザート。しかも当時、私はそれをあまり食べたことがなかった。箸で少しつまんで食べてみると、甘いお芋とバターの風味が襲い掛かってきた。私は急いでがっつき、それをどんどん取り込んでいった。
あまりに私が美味しそうに食べたからか、その次の年からスイートポテトはおせちの正式メンバーと相成った。毎年なかなかの量が入っていたが、私はおせちの中ではそれ位しか食べなかったので、すぐに無くなった。私の中では、お餅と煮物と一緒に、正月の美味しいもの三本柱の一柱に成り上がっていた。
それから随分立ち、私は成人を迎えた。その年の正月に、一人暮らしをしていたアパートから実家に帰省した。
その年のおせちには栗きんとんが入っていた。スイートポテトも入ったままだったが、その範囲を少し狭め、栗きんとんに場所を分けていた。何年かぶりに、私は栗きんとんを食べた。美味しかった。舌が変わったのか認識が変わったのか、何が原因かは分からないが、栗きんとんは「ついつい手が伸びる好きなもの」という枠に入ったのである。
そんなことがあったからか、私は何となく、スイートポテトを子供時代の象徴、栗きんとんを大人に入った証明のように感じている。私は当時、学校の行事の影響で成人式に参加できなかったので、より自分が大人になったと実感させてくれるものとして、栗きんとんは印象深い食べ物になった。
ただ、美味しいものの枠に入ったとはいえ、どちらが好きかと言われれば圧倒的にスイートポテトの方である。そういう意味ではこのお菓子は、まだまだ子供の部分をたくさん残している自分に気づかせてくれる、とても大事なものである。むしろ、おせちのスイートポテトに魅力を感じなくなった時、自分は枯れてしまったのだ、と気づかされそうでとても不安である。私はまだまだ、あの甘さを喜べる無邪気な者でいたいなと思う。